昔、若い世代を中心に「自分探し」と言う言葉が流行ったことがありました。
自分探しのために一人旅に出たりする人もいました。
更に現代では大量の情報があふれ、人生の選択肢が広がると同時に情報に惑わされることも多くなり、自分のやりたいこと、自分が何者であるかがわからなく「今は自分探し中」と言う若者が多いのではないでしょうか。
でも若者とはそういうものです。
自分が人生をかけてやりたいことはこれだ!とか、ほとんどの人にとってそうそう早いうちに見つかるものではありません。
いや、若者でなくてもそうでしょう。
40過ぎの大人が自分が何者であるというのは、それまでやってきた仕事や経験で「私は営業マン」「技術者」「運転手」「教師」などとそれぞれ思うでしょうが、もしリストラや失業、廃業した時に、それでも私はそうだと自信を持って言えるでしょうか?
またある職業についている途中でも何かのきっかけで、本当にそれが「自分の天職だったのか?」と迷う時がある人もいるのではないかと思います。
と言うのも私がそうでした。
仕事が安定している時、調子がいい時は、これが私の人生だ。、なんてなんとなく思っていましたが、いざ仕事が無くなった時
「私はいったい何者なのだったのだ?」
と悩んでしまいました。
「自分の存在さえ何なのかわからず震えている40の夜」でした・・ (ちょっと引用が懐かしい感じですが 笑)
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若者ならともかく、40過ぎて「自分はいったい何者なのか?」なんて悩んでいるのはカッコ悪いし、辛いと思いました。
しかし結局のところ「自分が何者であるか」を決められるのは社会や他人の評価ではなく自分しかいないという事に気づいたのです。
言いかえれば、40過ぎでも50過ぎでも、60でも70でも自分は「何にでもなれる」わけです。
例えば還暦過ぎてから始めてピアノを練習し始めて、何とか1曲でも簡単な曲を弾けるようになったとします。
その人が「私はピアニストだ」と名乗っても何の問題も無いわけです。
もちろん「私はプロのピアニスト」だというのであれば。その演奏によってお金を取れなくてはプロとは言えないでしょうが、もしお礼出すから何かの集まりで披露してくれと頼まれたら大きな意味でプロと言ってもいいでしょう。
「いいや、ピアニストと名乗るからには最低限ある程度以上の技術は必要だ」と言う人もいるでしょう。
それも間違いではありませんが、例えばアルゲリッチのような世界一流のクラシックのピアニストが「私くらい弾けなければピアニストとは言えないわ」と言ってしまったら、ほとんどのプロピアニストが私は「ピアニストだ」と名乗れなくなってしまいます。
この例えはちょっと極端かもしれませんが、つまりは「自分が何者であるか」というのは他人が決めるのではなく「自分が何者になりたいのか」と言う意志によってきまるのです。
確かに40を超えれば若い人より自分の限界や可能性は限定的だと認識せざるを得ないところはあります。
40過ぎてからサッカーを始めてプロなってサッカー日本代表に入る事はほぼ不可能でしょう。
しかしサッカーを始めることは出来ますし、職業でも何かを新しく始めることは出来ます。
完璧主義ではなく最善主義でいけば、最高の自分になる事は年齢は関係なく可能なのです。
それは自分自身が自分に制限しなければ完全に許されている事なのです。「
自分へのセルフイメージや自分の意思が可能性をとてつもなく広げます。
実際に50歳過ぎて自分は37歳だと思い込んで、本当にそのくらいの見た目にしか見えなくなっている人もいます。
カーネルサンダースのように事業に失敗して一文無しの65歳から起業して世界的企業を作ってしまう人もいます。
他にも50過ぎてから初めて測量を学んで全国を歩き日本地図を作ってしまった伊能忠敬、54歳で「昆虫記」第一巻を発表したファーブルなど・・・
「いやーそれは一部のまれな例でしょう・・・」と言われるのも分かります。
しかし、少なくとも抽象概念であれば自分がどういう人間になりたいか(成功したい、心の強い人間になりたい、明るい人になりたい、愛される人になりたい、
金持ちになりたい・・・)という事であればそれは自分の意思次第です。
人生は一度きりです。あなたの人生の主役はあなたです。人の目や評価はあなたが主役のストーリーには全く重要ではありません。自分が何者であるかは自分で決め、幾つからでも最高の自分を目指していくのです。
「心が変われば行動が変わる 行動が変われば習慣が変わる 習慣が変われば人格が変わる 人格が変われば運命が変わる」
ウィリアム・ジェイムズ(心理学者)
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